この文章は「微憶-ビオク-」創刊号の編集後記に記そうと考えていたものである。
何とも捉えどころのない、瓢箪で鯰を捕まえる様な「ぬらりひょん」の如き文章で誠に申し訳ないが、
少し抜粋して公開しようと思う。
内容が内容なだけに公開するのをためらったが、意を決して記すことにした。
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君よ
脱ぎ捨てよ肩書きを
出逢いに赴け もう一人の貴方に
その存在とのかけがえのないひとときを 見殺さず
身ごもるのです
母は二つの心臓を持っていた
自身と君の心臓を
君よ
母になれ
男女性別関係なく
君よ
母になれ
そして君よ 心臓を
君の中に二つ持て
志人より
photo by jayrope @ Berlin 2018 ------------------------------
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"男女性別関係なく 君よ母になれ"
ー志人は「志人」である。ー
吉本と志人からの置文
私、吉本は今まで「志人」とは自身においてどの様な存在なのかという話をしてきた事などなかった。
今後もこういった話はしないつもりでいるが、今生後生一度きり、あえて、改めて私はここに認めておく事にする。
今、公演後など、いたるところで、志人は「木こり」なんですか?と質問される事が多い。
私は志人を「木こり」であるとは思わない。
何故なら永年において志人は私の心の友であり、我が人生の小舟を漕いでいるのは紛れもなく志人だと思っている。
そして私は志人との出逢い方をよく知っている。
私の家族は私が志人と出逢っている時は分かってくれている様で、
蔵の中に閉じこもって出て来なかったり、立ちながらもブツブツ言いだしたり、
箸を持ちながら歌い出したりは日常茶飯事で、そんな姿を見た私の家族は、私をうまい具合に放っておいてくれる。
大変良き理解者であり、その感謝は言葉にならない。そんな姿を見せられるのも限られた人にしか出せない。
が、自然とぬらりと出てきてしまう。
日常生活に支障をきたすほど、志人と出逢い続けている時には作品が生まれる時だ。
そんな時は、ここぞと言わんばかりにまっしぐらである。
もしこの点において理解がなかったら、私は疾っくの疾うにこの世に居ないかも知れない。
親は未だにそこを全て理解できていないであろうが、
日常の何の肩書きもなく、同じ畑を耕している時や芋を掘っている時には
「ああ、おやじもおふくろも百の姓を持つ旅の者なのだな」と思うことがある。
志人と出逢った後、私はいつも何だか懐かしい気持ちになって心洗われている。
今日は珍しく玉兎とも出逢ったな、、なんて日もある。
志人の産みの親は私、吉本である。
しかし育ての親は朋友の音楽であり、詩であり、芸術であり、恩師の姿であり、
志人の作品に触れて下さる方々だと思っている。
もしも貴方の中にも志人がひっそりと居てくれたのならとても嬉しく思う。
どうイメージ付けられても構わないが、志人は「木こり」なのか?という問いに関して、
この場合、私は「木こりではありません。」と答えるだろう。
ではなんなんですか?と聞かれたら、
「志人」です。と答えよう。
私の妻は私の事を「よしもとくん」と呼ぶ、集落の人間も「吉本さん」と呼んでくれている。
ここでの生活で誰一人私を「シビット」と呼ぶ人は居ない。
しかし、TempleATSの皆と話すときにはいつも「シビット」と皆が呼ぶ。 私はそれはとてもしっくり来ている。
互い道は違えど、心に重きを置いている部分が共通してある仲間からはそう呼ばれるのは有難いことだと思っている。
現に志人として産まれた表現の中で出逢っている人達だからである。
しかしながら、ステージを降りたら私はシビットなのだろうか?
音源や書物の外側の日常の私はシビットなのだろうか?
郵便ポストに手紙を投函したり、歯を磨いたり、食事をしたり、寝たり、
地下足袋を履いて山を歩き、除伐間伐や枝打ちに下刈りをしている時は「志人」なのだろうか?
私は違うと思っている。
私を「シビット」と呼ばない人は家族とほんの一握りの人しか今は居ない。
いつからか私自身、人から「シビット」と呼ばれることに慣れ親しんでしまっていた。
それは私が志人と出逢って居ない時にもそう呼ばれることにも慣れてしまっていた。
そして、いつしか「志人」は「木こり」であるとされる様になった。
むしろ私が「吉本」と「志人」を混同し、曖昧にしたのが悪かったのだと思う。
現に、志人としても山仕事からの経験の話や実体験を元に作詩したりもしているので、そう捉えられても当然であろう。
明らかにそれらの経験は、かつてあった私の価値観を変え、ある部分では見事に逆転する程、目から鱗が溢れる場面が多々あった。
経験が詩になるのは当たり前のことである。
他人から付けられた肩書きというものは様々な誤解を招くと同時に、決めつけられてゆく恐ろしさは確実にあった。
私はやはりプライベートや日常を大っぴらにする様な端的な取材などは、今後最小限に留めたいと思うに至った。
一日中、詩を書いていた日もあれば、草むしりしかしていなかった日や蜂毒に日夜うなされていた日もある。
それでも、何故か記憶にこびりついて止まず、ふとした瞬間に色濃く昨日のことの様に思い出す場面場面が人生にはある。
出来るならば、この「微憶-ビオク-」の中では、日常の些細な記憶を記す事をしたいなと思っている。
これは戸田君と吉本が、時に志人と次元が、玉兎とONTODAが、二人の部屋で二人の話をしているうちに出来上がっていったものである。
日常は小さなビックバンの連続だ。
私にとっては肩書きというものは、他人からどう判断されるかという他者を意識した上で自ら名付けるもの、
あるいは他者が勝手にその人を判断しイメージづけるものであると思っている。
又、我が表現は"人が今生で他者より意味付けられたあらゆる「肩書き」を脱ぎ捨てる事"であると言っても過言ではない。
自分自身を知るためには人間界一点張りではならず、自身を取り巻くあまねく命たち、果ては命ならぬ無生物の声も聴き、心を寄せる事が鍵だと思っている。
時に人間という肩書きをも捨てる必要がある。
吉本は「木こり」もするし、「おむつも変える」「山葡萄も採ったり」「サルナシをかじったり」「アケビの種を飛ばしたり」「野宿もする」それは全て私の生活である。
志人には「生活」は無い。
志人はステージで、書物で、朋友や師と崇める音楽家の音の上で息をしている。 私が志人と巡り会える時は必然であり、"逢いに行く"という感覚に近い。
そのかけがえのない時を、いつ終わるかわからぬ人生の時間の内、ひとときでも多くの時を志人と共に過ごしたいと思っている。
それを分かって頂きたい。
誤解を生みそうな表現であるが、これは吉本の性別は男であるが、同時に志人の母であるが故のサガである。
志人には性別もないのだろう。
日常生活のリズムと、志人のリズム、それが呼応しあっている。 いつも見えない手を繋ぎとめていたいと思っている。
それが分からない人間とは残酷だが、これ以上話す必要は無いと思っている。
いつもこうやって切り捨てる。
こんな性分だから私は、人間界から村八分を喰らう様な錯覚を常に持ってしまい、持たれてしまうのだろう。
冷たい、きちがい、だと。
しかし、精神科医が精神病だと命名するあらゆる病名も、この事を理解することによって打破することができると思っている。
素晴らしき音楽は名医であり、心打たれる名画 や、息を飲む芸術に触れれば医者いらずになる事もある。
体はそうはいかないが、心においては医者いらずだと思っている。
治し方を心得ている。 それを知ることができたのも、志人と貴方のおかげだと思っている。
音楽の源流は元来、人間へ向けて聴かせるものではなかった。
聴者対象を人として唄う歌は世の中に溢れているが、いつも志人はそことは違う源流の中で出逢う気がする。
芸術とはなんたるかなど、私は語れた身分ではない。
しかしながら、この繊細な部分の理解こそが心の部分においては「医者いらず」になると確信している。
それは自分自身が自分の中の「志人」の良き理解者であると同時に、
他者にも必ずそういった存在と出会う大切な時間があるのだという部分を忘れてはならないのである。
志人が「木こりである」と称されることというのは、
精神科医に「貴方は〇〇病です。」と難しい病名を突きつけられることと同等だと私はとる。
そんなあてつけられた病名など鵜呑みにしてはならない。
そこで、あえて産みの親だからこそ言わせてもらう。
志人は「志人」です。
と
誠に自分勝手で、自己主張に過ぎないおこがましい文面であると自身でも思っているのであるが、
あえて、ここで明記しておきたいと思っている。
もしかしたら貴方にも私にとっての「志人」のような存在があるのかも知れない。 きっとあると思う。 もう一つの音色を奏でる心臓が。
なんて表現したらいいのかわからない、何と肩書きをつければ良いのか分からない自身の中のもう一つの自身の存在が。
私は土蔵の中に入り、自分の中の志人をそばだてる。 鉛筆を握り、録音ブースに入り、志人と出逢う。
貴方がレコードを、CDを再生し、本をめくり、志人と出逢ってくれる。
志人と出逢えるタイミングが合えばいつでも出逢えると思っている。 けれど多分あんまり頻繁には出くわさないだろう。
私は私の中の志人とあなたの中の志人と肩を取り合い、見えない手を繋ぎ、
いつまであるか分からない人生の中でほんの一時でも、そしてより多くの時を志人と過ごしたいと思っている。
その上で、どう捉えて頂くかは貴方様に委ねたいと思う。
私の中の志人、分かってもらえましたでしょうか?
ここまで書いたところで、うじやん74歳が蔵の外から声をかけてきた。 蔵の戸が少し開いていた。
「おーい。 お祈り中にすみません。 おるか〜 イタドリ持ってきたんやけど。 あんたがお祈りしとるからそっとしといたけど、 わし、 帰るわ。」
どうやら、執筆をしている時や、詩を書いている時はうじやんには「お祈りをしている」様に映った様だ。
ずいぶん前から蔵の外に居たみたい。 全く気付かなかった。
多分、うじやん今日はこの一行しか、そして、私としか、人と会話しないで、後はいつもの無数の独り言を言って一日が終わるんだろうな。
しばらくうじやんと井戸端会議でもしよう。
ほとんどがイタドリの話だろうけど。
そういえば、明日家族が帰ってくるので、今は家は私一人。
多分私もこの一行しか今日、人と話さないのだろう。
まあ、うじやんは人間というよりは妖精に近いけれど。
「ちょっと 待っててや〜 今行く〜」
では。
吉本 より
2018年5月27日 日曜日 17:06 筆置
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君よ
脱ぎ捨てよ肩書きを
出逢いに赴け もう一人の貴方に
その存在とのかけがえのないひとときを 見殺さず
身ごもるのです
母は二つの心臓を持っていた
自身と君の心臓を
君よ
母になれ
男女性別関係なく
君よ
母になれ
そして君よ 心臓を
君の中に二つ持て
志人より
photo by jayrope @ Berlin 2018 ------------------------------
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