ライト・ヴァース 日常詠
雨月の作文朗読:『月は濡れている Live recording ver』 作文/作曲 志人 (再録音)
before Mix & Mastering
作文の宿題をしている子供の横で 僕も 書いた 作文を
ハンディーレコーダーでライブレコーディングして、伴奏を即席で奏でています
この歳にして 夜の街にほとんど出掛けなくなってしまって
久しぶりに夜の街を走ってみたら
気付けば 濡れていた
これは 子供がはじめて見た夜の街 というよりも
僕が まるで はじめて見てしまった かの ような 夜の街 なの かも 知れません
ー 「未来は いつも 作り途中だな」 (夜の動物園を見た時の父の台詞より)
ライト・ヴァース 日常詠 について
念を込めて祈るように詠んでみたり
何度も何度も 鍛金するように 裏紙まで書いては書き直してを繰り返して
仕舞いに 誰によって描かれたのかすら 分からなくなってしまう程 遠くに来たり
寝ても覚めても 詠っているような心持ちの時には それなりに重厚な作品となっていくような気がするのだが...
ライト・ヴァース という ものが もっと あっても よいのではないか と思う今日この頃である
この ライト・ヴァース ということば には きっと深い歴史や意味合いも存在するのだろうが
日常詠 として 僕は ライト・ヴァース としている
僕の少年時代から二十代頃までの日常は東京という都市で あったこと みたモノ 聴いた音 感じた心 であったのだが
東京を離れてしまってからは その都市の日常の記憶というのは化石化して来てしまっている
その化石化しつつある都市の日常を 今更思い出そうとするには
僕自身が 一足早く 老人になってしまわないと その記憶が真新しく再現されて来ないような
たどたどしい 遅れが リールテープのヨレであり
速さよりも もどかしさを優先しつつあるが そのまま 巻き戻せば テープは千切れるかもしれない
今や その嘗ての日常を想うことで 鮮やかに蘇らせる というよりは
健忘という忘失の地層の中をまさぐるような
暗闇の中で 手を繋ぐ相手を探しているような心持ちである
僕にとってsound cloud という雲は
創作の過程で 客観性を自分の中に認めるために在るような感じがする
それこそ ー 雲が雲でなくなるまで見つめていただけの昼下がり ー『明晰夢』"絵の中の絵画" より
この雲は 僕にとっては
僕だけではなくて どこの誰か知らぬ君と 一緒になって 作品を創作している気持ちになることができるような錯覚がある
嗚呼 それは 錯覚のままで良い それでも 僕にとって 見えない君の存在は偉大である
この雲は 声や音楽を録り終えて 土蔵から這い出て 離れた処で聴くための手段である
それでいて 唯一の外界との接点ともいえるような気もしているが
当の本人は非常に私的に 聴くための手段 としてある
例えばそれは 黙々と 丸太の樹皮を剥いでいる時であったり
山中で薪を割って背に担いで 行ったり来たりしている時に
(君がもし その姿を 樹冠あたりから見ようものならば 気が滅入るような間 行ったり来たりしている)
そっと 両耳の小部屋に 忍ばせる時がある
ほとんどは ずっと 自然の音を聴いているのだが
同じ動作を繰り返している時というのは思案に暮れている時と似ているからか
無性に人の声が聴きたくなることがある
そんな時に両耳に栓をして 聴いている
このなんてことのない自分を省みる雲は やがて 空に溶けてゆく
クラウド というものが 存在しているが 実在はしていないように
僕はつい最近 ここ数年の音楽記録のほとんどを失ってしまったのだが (パーソナルコンピューターの中においてはデータが飛んだのだ)
いくつかだけ この雲に残しておいた詩があったので ほんの少しだけ復元できた 本当にほんのすこしだけだったが
土蔵を見渡してみれば あちらこちらに 無数のデブリが 散在していたり
ボイスレコーダーのマイクロカセットに残っていて ほっとしたのは
実在していたからである
僕は僕自身の作品を僕なりに考えてみることは出来るけれど
それは全くもって客観性を帯びず
離れたところから それこそ 雲 あたりから 鳥瞰的に 今居る処を 見つめてみる必要があるので
人知れず 雲の中で聴く
自分の声を 全く知らない どこかの誰かの声 として
そうした時に あぁ 恥ずかしいほど 小気味悪く 駄作だなぁ なんて呟いてもみる
その後で どこが どうして 駄作と想ってしまったのだろうか と 深く考えて
また その考えが無くなってしまうまで 土蔵に居る ことがある
ベトベトとした たどたどしさが 潔くなることが 望ましいのかとか 望ましくないのかとか
子供の作文は とても小気味好く 潔い
その潔さは 「宿題を早く終わらせなくては虫捕りが出来ないよ」という子供ながらの切羽詰まった感じであるのかは知らないが
子の日常詠には感服させられる
一方で 大人にはなりたくないのだが 大人になってしまいそうな子供大人の描く詩ではなく 作文ともなると
非常になんだか 押し付けがましかったり 態とらしく 感情に訴えかけるように 書いてしまったり
声に出して詠むともなれば 尚更のこと 小気味悪くなってしまいがちだ
ましてや 大人が自分で期日を決めた夢の宿題だなんて 先延ばしにもできる訳で
夢には期日はない なんていう言い訳も出来てしまう それも言い訳ではなくて ほんとうかも知れないのだが
死ぬことと本格的に向き合わなければ いよいよ切迫することは ないかも知れない
死と向かい合わせのヒリヒリとした時に出来上がる詩というものは 非常に重苦しい響きを持つという意味でも重厚ではあるが
その響きが嘘っぱちのものであった時には やはり 何も響かない
そして重厚な詩(と 敢えてここでは呼ぶことにする)は 音と伴って詠みあげられるのだとしたら尚の事
それを聴く者は 聴く場所や時を選ぶような作品になってしまうのも事実 あるのではないか
僕は 色々憶えては 失くしかけている今
ライト・ヴァース を 子供が日記を書く横で 一緒になって描いてみる
作文として潔かったとしても 声としては どう響いてくるのか
そこが とても 難しく考えれば難しくなってしまい
もっと なんというか はい 終わり 次! という 潔さを 子やお年召した方々から学ばなければなぁ と熟熟 想うのである
初日録音の "月は濡れている" を 遠く離れた処で聴いていたら
老人の寝言か譫言のように聴こえて来て
非常に 眠たかった
作品としても 価値など与えようもなく 眠たいものだった
こうして僕はこの ライト・ヴァース を 笑い飛ばーす ことが出来たような気がするが
これは 書いた後 その日に録音したものであったので
雲の中で改めて聴いてみると なんとも ベトベトしていたので
もう一度 詠んでみた
朝 鳥が目覚めたら おしまいなのだ 夜にだけしか録音できない曲も ある
これからも こうした日常詠は続いていく
僕の中での ライト・ヴァース は 今日を今日として 描き切ってしまうことだ